夢を追い続け叶えたオーストラリアの日本人教師に直撃インタビュー!

こんにちは!
今回はオーストラリアに留学後永住し、教師として活躍する菊地さんの貴重な体験談をお届けします!!

【プロフィール】
菊地良太

埼玉県日高市出身、建築士兼大工の孫、母子家庭の長男、近所の養鶏場や養豚場の動物達が普通の物として、理科や自然と共に半野生児的に育つ。

高校三年の三学期、周りが予備校に行く中オーストラリアの姉妹校からの短期留学生を受け入れ、たまたま引率で来ていた姉妹校の校長と日本語教員課の長である校長夫人に、ボランティアとして日本語を教えてみないかと誘われる。断る理由もなくとんとん拍子に事が運び、翌年四月には南オーストラリア州、バロッサバレーにあるFaith Lutheran Collegeで日本語補助教員のボランティアを始める。
タダ働きだが、タダで衣食住の面倒を見てくれるホストファミリーを生徒の家々から探してくれるという物で、何不自由なく田舎生活を満喫する。

日本に帰国して約二年間のアルバイトと就職の経験を経た後、サウスオーストラリア大学付属の英語学校の大学進学コースに入る。コースをパスすれば大学に入る資格が得られるはずだったが、高校卒業時の成績の悪さのためサウスオーストラリア大学には受け入れられず。同じくアデレード内にあるフリンダース大学は「IELTSの成績次第」との事で、急遽学生ビザからワーキングホリデービザに切り替え、IELTSの点数を伸ばすことに励む。

翌年フリンダース大学に晴れて入学し、教育学部高等部教育専攻と理学部化学専攻情報科学後攻のダブル学士号を4年間をかけ取得。

2010年以来夢であった高校教師として働き始め、そこから数年で永住ビザも取得。現在はティンデールクリスチャンスクールの高等部で化学、リサーチプロジェクト、ICT、そして時に日本語を正教員として教えている。

ちなみに永住ビザを取得した直後七年間交際していた中国系マレーシア人女性と結婚、現在は三児の父でもある。

 
Q:なぜ留学しようと思ったのですか?

小さいころから掛け持ちで仕事をこなし僕と妹を養ってきた母親を見て育った自分には「いいとこ入るのが勝負」、「やりたいことをさがすのが大学」、「将来は入ってから考える」という様な大学教育に対する空気がどうしても好きになれなかった、というのが根本にあると思います。
高校一年の段階で、数学ができず物理も落とし、祖父と同じ建築士になるという幼少時代からの夢を失った自分には、そのいずれの大学に入る目的も「金の無駄遣い」としか映りませんでした。
その点海外の大学は「目的意識をもっていないとすぐに置いて行かれる」、「卒業までの方がまた大変」、「卒業できれば専門職につながる」というのが普通だと聞き、留学が自分向きだと悟りました。

 
Q:出発前の英語力はどのくらいでしたか?

高校卒業後ボランティアとしてオーストラリアに初めて降り立った時は、現地の人の喋る会話の内容はほぼ分かるが、受け答えは出来ない、というようなレベルでした。中高一貫の学校だったため、中学三年間の総復習を高校一年の初めにしてくれたのが幸いでした。
二年生、三年生と上がるごとに、英語の成績もかなり上げることができましたが、それは文法と読解のみの話でした。クラスの皆が予備校に行き始める中、自分はNOVAに入り浸り、できる限りの努力をしましたが、やはり自分の意思を瞬時に伝えることは最初はできませんでした。

 
Q:留学準備はいつから始めましたか?

ボランティア生活の一年を終えた後、社会経験を積むつもりで二年日本に残りましたがその間はほとんど何もしませんでした。
強いて言えば、洋楽の歌詞を記憶し、カラオケで発音を練習していたくらいでしょうか。
オーストラリアに戻ろうと決めた時も、前に通った英語学校に問い合わせただけだったので準備という準備はほぼしていないに等しいです。ただ、英語学校から大学に入る際の準備は、現地の留学生サポートセンターの協力を得ました。受け入れてくれるはずだったサウスオーストラリア大学に受け入れてもらえずフリンダース大学に急遽出願するというトラブルは、当時の僕には難しい作業でしたので。

 
Q:現地で何をしていましたか?

ボランティア時代まだ英語がよく話せなかった頃、パーティーなどに呼ばれてできることと言ったら、体操部時代に培ったバック転やらバック宙などで場を盛り上げることぐらいでした。
それがきっかけで、ストリートでブレイクダンスをしている人たちと知り合い、オーストラリアのど田舎で言葉のいらないブラザーフッドを築くことができました。15年以上たった今でも、当時知り合ったクルーメンバーとは友好があります。

また、ボランティアをしていた学校に和太鼓がどういうものかとプレゼンテーションをしに来たオーストラリア人女性に知り合い、幼少期から祭り太鼓を叩いていたこともあり、太鼓のグループに入ることができました。自分の持っている伝統技能が異国の地で使える事は、とても嬉しいことでした。英語学校に入るために2年越しに戻ってきてからも、大学時代を通して多数のイベントでグループと共に和太鼓を叩かせていただきました。

英語学校時代はというと、プラスチック製品のプレス工場でアルバイトをしていました。そこの工場長の親戚が大工兼木材屋だったので、木製キッチンや家具を作ったりもしました。

大学生になってからは「日曜日の夜から金曜日の午後までは勉強、それ以外は遊び」オンオフを切り替える努力を絶えずしました。日本で就職をした経験のある自分にはオフの時間の大切さが分かっていましたので。この頃はというと金曜土曜の夜だけ日本食レストランでバイト、週一で家庭教師のバイト、時々通訳や翻訳を頼まれたり、ツアーガイドも何度かしました。学期休みには大概大工の親方に呼ばれ、大工工事をしていました。職人家系で育った僕には何とも嬉しいアルバイトでした。
それらバイト以外での週末は、専らカポエイラにはまっていました。器械体操、ブレイクダンス、マーシャルアーツ、アフリカ人奴隷の歴史などが混ざったカポエイラは正に「人生を楽しむ」にはうってつけの趣味でした。それが終わるとクラブに乗り出し、酒も一滴も飲まずに朝までダンス三昧。嫁に巡り会ったのもクラブでオフを満喫していた真っただ中でした。

 
Q:現地でどんな学校に通っていましたか?

フリンダース大学
教育学部高等部教育専攻と理学部化学専攻情報科学後攻のダブル学士コース
2006-2009の4年間(同時に受けなかった場合、理学部学士号に3年間プラス教育学部修士号が2年間、計5年間となる)

いい点は宇宙飛行士の毛利衛さんが物理博士号を取得した大学で、アデレードの商業区から車で30分ほど離れた郊外にあります。
山一つが大学、という感じで、街の喧騒も注意をひくものもなく、とても勉強に集中できました。敷地内には結構なサイズの池、谷、橋などもあります。方や街の中心部にあるアデレード大学に通う友人は「カフェやショッピングモールが近すぎる」と嘆いていました。大きな町から来た人間にはつまらない場所と映るかもしれませんが、僕にはうってつけの環境でした。週末街に出ていく楽しみもありましたし。
悪い点といえば、化学、IT、教育学を同時専攻する人間があまりいないため、どうしても授業が重なってしまうことが多々あったことです。授業も全く違う建物だったため、10分の休憩の間に山のふもとから頂上まで行かなければならないということもよくありました。運動不足にはなりませんでしたが、汗だくで行きも切れ切れで講堂に入っていくということが普通になっていました。
 
 
Q:現地でどんな仕事をしていましたか?

大学卒業後2010年から2012年までは三つの公立高校で教えていました。公立の学校は州の教育省の管轄のため、いかに学校側が欲しがっても生徒の数が減れば教員数も減らさざるを得ないのが普通です。そのため、臨時講師はなかなか正教員にはなれず、生徒が減った折には先ず他の職を探すように言われます。オーストラリアで高校教師になるためには二つ以上教えられる科目が必要となります。
初めての仕事は化学でも情報科学でもなく、日本語と社会でした。中々ガラの悪い校風の学校で、何を残すことができたのかは今だに分かりません。二つ目の学校では数学と日本語を主に教えていましたが、最後の学期だけ中学理科を任されてとても嬉しかったを憶えています。

その後生徒の減少と共に他の職を探すことを余儀なくされ、半年後にやっと現在の職場でもある私立ティンデールクリスチャンスクールで働きだすことができ、やっと自分の好きな化学をメインに教鞭を振るっています。
この学校では他の学校以上に教員も個性を尊重され、やりたいようにやらせてくれます。高校時代、一つも実験のなかった科学の授業が分かりづらくつまらなかったという記憶があるので、僕自身は週一で実験なりデモンストレーションをすることを基本としています。毎日自分の好きな創作作業をしているので、仕事が楽しくてしょうがありません。大学にやりたいことを見つけてから入ったことの賜物です。教員、非教員の全てが毎週教会に通うキリスト教徒という学校でもあるので、この学校の一部になったという時点で全てのスタッフと共通の認識がある、というとても士気の上がる環境であるということも言えます。科学の授業中に聖書に出てくる創世記と原子発生の原理などを結び付けた発想などを発言できる学校はなかなかないと思います。
 
 
Q:現地での1日の流れを教えてください。

6:30     起床
7:00     子供達と朝食を食べる
7:30     職場にに出発
8:00     朝のミーティング
8:30     一時限目、ホームルーム、二時限目、三時限目
11:00    休み時間
11:20    四時限目、五時限目
12:50    昼休み
13:40    六時限目、七時限目
15:15    授業終了
16:30    職場出発
17:00    帰宅
20:30    子供たち就寝
21:30    採点、授業準備等開始
23:00    就寝
 
 
Q:日本とオーストラリアの違い何ですか?

最大の違いはオフの時間の楽しみ方を知っているということだと思います。
「人生は仕事のためにある」というような人間はほぼいないに等しく、「仕事は人生のためにある」という人間ばかりです。それに加え、特に田舎の方の人間は、暇な時間を何もない中で楽しく過ごす事ができるというのもオーストラリア人の特徴だと思います。日本のようにすべての物が当たり前のようにある所からくると、自分が時間を持て余しているということに気づくと思います。オーストラリアの人間は何かしらの趣味があるようで、オフの時間は自分の好きなことをするということに徹底しているように思えます。
 

 
Q:留学して良かった点は?

世界観が開け、日本という国、そして日本人であるということを考える機会ができたことだと思います。
海外の国々と共存していくには、どういったことを日本人として強みにしていったら良いかを体験から学ぶことができました。わび、さび、察する力、相手のことを考慮する力、周りへの気配り、協調性、その他諸々の日本人の特徴は、一見するとリーダーシップに欠け、周りが動かないと動けない人間にもなりえます。自己主張と意見の言い合いがごく普通な欧米社会では逆に強みになります。特に組織の一部になったとき、そしてその組織の総意と自分の意見が合致した時、日本人はぶつかりがちな個々が混在する組織全体に調和をもたらすことのできる、「最強の縁の下の力持ち」な人種なんだと実感しました。
 
 
Q:留学を振り返って反省点は?

特になし。大学のコースも職業も自分でやると決めてからやったものですから。強いて言うなら、ボランティアとして来た一年目に自動車免許を取得していかなかったくらいです。
 
 
Q:今後の目標、夢について教えてください。

先ずは2018年中にHighly Accomplished Lead Teacher Certificate、熟練者管理職枠の資格を取得したいと思っています。教員免許に上乗せする形の資格で、取得すれば賃金も大幅アップする他、他国にあるインターナショナルスクールでの仕事にも就ける可能性が上がります。嫁がマレーシア人であり、いつあちらにあるインターナショナルスクールで化学教員のポジションに空きが出てもいいように、という準備も兼ねています。
 
 
Q:最後に、留学する方へアドバイスをお願いします。

過去15年のオーストラリア生活の中で、「英語が話せるようになりたい」、「英語を使う仕事に将来就けたらいい」という気持ちを持ってオーストラリアに来る生徒をたくさん見てきました。それはそれで立派な理由だと思いますが、そこで考えを止めている生徒がほとんどだったと思います。留学生活はあっという間に過ぎます、そしてその間にしかできない未来設計があります。
僕は「日本語の教師になる前に日本の社会についてもっと学ぼう」と思い、2年間日本にとどまりました。高卒資格しかない僕には「英語を喋れるだけの人間ならごまんといる」や、「うちじゃ英語喋れても使う場所ないよ」などと言われるような職場にしか面接に行くことすらできませんでした。「英語喋れるようになったしどうにかなるだろう」と自分の人生を楽観視しすぎた結果でした。
もし「英語で何をしたいか」が具体的に決まっていないのであれば、留学中に「どんな仕事に自分の英語を使えるか」を調べる時間を設けてみてください。きっと将来役に立ちます。

作成者:Teru

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